個性を大切にするに違和感を感じた話
おはようございます!
おかぴーです!
今回のテーマは、
「個性を大切にするに違和感を感じた」
ことをお話ししようと思います。
先に言います。
僕の考え方は変です。
ただの屁理屈です。
読んでて不愉快に感じるかもしれません。
でも読み終えればいろいろ気付くかな?と思います。
(こう言って逃げ道を作っておきます。笑)
個性ってなに?
最近よく聞くんですが、
「個性があるね!」「個性を大切にしないとね!」
「個性ありすぎ!」「個性だせ!」 等々…。
個性ってなんなんでしょう?
ちょっと調べてみました。
- 他の人と違った、その人特有の性質・性格。個人の特性。
- 「―的な人」
だそうです。
なんか特別な感じがしますね。
特に、「他の人と違った」との解説に違和感があります。
他に、
- 個性とは「自分らしさ」です。
- 自分に特有の性質であり、性格です。
- 無理に演じたりすることではなく、ありのまま自然と表現されることです。
- 自分の外側にあるのではなく、内側にあります。
とも解説されていました。
こちらの方が特別な感じがなく自然な感じがします。
特に、「自分らしさ」との解説がスッキリ感があります。
同じ個性でも真逆の捉え方がありますね?
皆さんはどちらの意味で捉えますか?
反対に個性がないとは?
反対に個性がないとはなんなのか?
を考えてみました。
- 他の人と同じ、皆と共通の性質・性格。
- 「一般的な人」
まあ、普通の人と言うことでしょうかね?
他に、
- 「自分らしくない」
- 皆との共通の性質であり、性格です。
一般的と言えどもなにか否定的な言葉も入ってきます。
皆さんは、個性がないと言う意味をどう捉えますか?
個性と言う言葉の意味
「個性」とは、良くも悪くも意味があるようです。
と言うことは表現的に曖昧な言葉であるように思います。
なので僕は、
「個性を大切に」と言う言葉に違和感を感じます。
僕の中で「個性」とは、「その人自身」と捉えています。
なので、人は皆「個性」だと思うのです。
だから、「個性を大切にしよう」との議題が出ること自体が、
「最初はあなたのことを認めてませんよ」
との言葉に聞こえてしまいます。
同じ人間なのに…。
存在を否定
話が大きくなってしまいますが、
先ほど僕は「個性」とは「自分らしさ」だと共感しました。
最初は認めてくれないとしたら、
「自分らしさ」を認めないことになり、
存在自体を認めないことになるんじゃないかと思ってしまいます。
「個性を伸ばしていこう」
これを教育者が言うんです。
とても違和感しかないです。
でもそう言う教育者も「個性」です。
こんなことを議題にしないといけない教育社会に違和感を感じます。
僕の講習会は整列禁止です
僕の中で「個性」は「自分らしさ」を優先します。
と言うか、「個性=自分」です。
僕は講習会の最初にお願いをします。
「整列禁止です。」
そう言うと学生なんかは目が点になります。
一般常識ではありえないから戸惑います。笑
整列の目的はなんですかね?
皆が同じ思考で行動をとるためだと考えると、
「個性」はどこへ行ってしまうのでしょうかね?
講習会の目的はなんですかね?
自分で説いて明らかにするために習う会です。
そこに整列関係ありますかね?
聞きたい人は前に来るし、
聞きたくない人は後ろに下がるし、
人それぞれなのでなにも問題ないです。
選手ファーストで考えるなら整列は不要です。
僕のご機嫌を伺い気を使うなら整列は必要かもしれませんが、
僕はそれを求めていません。
僕が求めているのは自発的行動のみです。
集団的行動を否定しているわけではありません。
むしろ災害等あれば集団的行動の方が良いと思います。
その時々の目的によって臨機応変に対応したいですね。
まとめ
最初に言いましたが、変な考え方です。
僕の考えは他で聞いたこともないし習ったこともありません。
なので一般常識から外れることであります。
これは僕の「個性」です。
「自分らしさ」です。
なんか上手くまとまってしまったでしょ?笑
「個性」って曖昧な言葉なので、
なに言ってもまとまってしまうんです。笑
「個性を大切に」よりも
「一人一人を大切に、その中に自分がいる」
と思っています。
今回のテーマは以上です。
こんなわけわからない屁理屈な話を最後まで読んでくれてありがとうございます。
今日も良い一日をお過ごしください。